「聖域」の終焉

 日本学術会議が選任したメンバー6人が菅首相の拒否でメンバーに入らなかった。「学問に対する差別だ」として、否決経緯の説明責任をはたすべきだという批判が展開されている。
 日本学術会議は終戦間もない昭和23(1948)年、米駐留軍政のもとに招集結成されたが、任免権は内閣総理大臣にある。昭25(1950)年、第3回総会において「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意表明」を採択した。
 昭27(52)年、13回総会で「破防法反対声明」を可決。政治的に発声力の強い「学問の国会」と評される存在となった。当時の雰囲気としては仕方なかったろう。大戦大敗の気運により、大日本帝国の権威は全面的に失墜し、不戦非戦が発言権を得、平和主義を提唱する者こそ善であり、唯一「絶体」の存在としてこの世を謳歌した。あれから72年。人民服で「熱烈友好」を唱えた「善意」8億の民は、経済超大国、軍事大国に急成長。周辺諸国との領有権トラブルは絶えず、特定民族最優先主義。世界を震撼させるウイルスを巻き散らして違う意味の超大国ぶりを見せつけている。WHOをはじめとする国連傘下の組織に「絶体」的な存在感や影響力を実証している。国家成長の手段の一つに日本から流入した知識や技術力がある。善意の援助が民生から軍事に転用された形跡もあった。
 学術会議は総額約10億円の国家予算で賄われた公的機関。政策決定に資する情報や知識をもって助言する。
 活動方針の主力に、武器開発の禁止、積極的な学術交流が掲げられ今日に至っている。
 武器(兵器)開発の禁止といえば聞こえはいいが、国防任務に携わる我が国自衛官の装備品もこの枠に入る。任務遂行にあたる若者達の身を守る装備開発を忌み嫌うような感じを受ける。留学生などの学術交流で学んだ知識は帰国後、平和民生技術から、国の方針でまたたく間に軍事転用が可能となり、多くの知識、科学技術が流出している。今でも。
 学術会議の人文、理数系の配分、選考基準、出身大学は旧国立Ⅰ期系の遍重、外国人構成員の選考基準など問題はある。72年前と、今の日本を取り巻くアジアの環境を充分に考慮した対応が必要。学問は「聖域」ではなくなったことを、90万人の日本人研究者は受け止めるいい機会となったのでは………  (陽)

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