広瀬勝貞大分県知事(80)は、4日の記者会見で、来年4月の知事選に不出馬を表明した。予期せぬ突然の発表に一夜明けた県下は感謝の意と、騒然とした空気に包まれている。
03年の初当選以来、疲弊した県財政の建て直しをスピーディーに処理。経産省時代の実力と行動力をいかんなく発揮。企業誘致、農水事業の見直し、細やかな福祉事業の推進、インバウンドを主力とした観光諸施策の展開、「おんせん県おおいた」を名乗る。災害に強い郷土強靭化対策は加速度を備え、ITの農水参入は全国トップレベルに。レベルアップといえば県下、小中学生の学習レベルは全国トップクラス。さらに圧巻だったのは、ラグビーW杯大分大会は、欧米をはじめ世界に「OITA」の存在を認めさせ、「レガシー」として生き続ける。また地球世界の窓口に立たせたのは、「大分宇宙港」の開設計画。夢とロマンあふれる県政推進のトップリーダーとしての評価は計り知れず、加えて上皇御夫妻をはじめとする皇室からの信頼も極めて深い。
また年間を通じて、県政懇談会を各所で開き、地元民と県政とのつながりを深め、全県津々浦々に「広瀬ファン」を獲得。突然の「引退」に惜しまれる声も日増しに拡大している。
広瀬氏は1942(昭和17)年、大分県日田市生まれ。東京大学法学部第2類(公法コース)卒業後、66年通商産業省に入省(石炭局炭政課配属)。貿易局、大臣官房総務課、重工業局、大臣官房秘書課を経て、76年より外務省に出向し、在スペイン日本大使館に赴任。
79年帰国後は資源エネルギー庁企画官、同庁石油流通課長、通産大臣秘書官、機械情報産業局情報処理振興課長、同局総務課長、産業政策局企業行動課長、大臣官房総務課長、中小企業庁計画部長などを歴任。91年、宮澤喜一内閣総理大臣の秘書官に就任。
宮澤氏の退陣後は通産省へ戻り、機械情報産業局次長、貿易局長、大臣官房長、機械情報産業局長を経て、1999年9月より通商産業事務次官に就任。01年の中央省庁再編に伴い、初代経済産業事務次官に就任した。02年2月に退官。
03年、大分県知事選に出馬、初当選。07年、11年の大分県知事選では日本共産党以外の政党は候補者を擁立せず、広瀬氏自身も政党の支援は受けず、対立候補に大差をつけて再選された。
14年11月、大分県知事選に4選を目指して出馬する意向を表明。大分市長の釘宮磐氏が広瀬氏の4選阻止を掲げて知事選への出馬を表明。釘宮氏はかつて国会議員時代に所属していた民主党の支援を受けたが、村山富市元首相や連合傘下の一部は広瀬氏を支持した。知事選には広瀬、釘宮両氏を含む5人が立候補した。広瀬氏が終始、優位な戦いを進め、次点の釘宮氏に約16万票の大差をつけて圧勝。19年も他の候補に大差をつけて圧勝、5期目に突入した。
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※県政の重点課題に「健康長寿」「子育て満足」「障がい者雇用」それぞれ「日本一」をめざすシリーズがある。20年の治世は「安全燃焼でした…」と話すが、弁舌さわやかに丹々と語る表情にミジンの暗さもない。
自信に満ちた身の処し方か。役割の幕引きではなく、次元の違う世界での活躍が期待されそう。5期目のほとんどをコロナ対策で費やされた。地球全体が「フラストレーション状態」。時折りSNSの投稿は心ない人々の声が寄せられたのは残念。20年間の進化は県民に計り知れない物心両面の利益をもたらした。来期の知事選不出馬の衝撃発表はまたたくまに県下を駆けめぐった。早くも「広瀬ロス」が始まった。 (陽)
長野市長「功績に感謝」
広瀬勝貞大分県知事が、来年4月の知事選挙不出馬を表明したことを受け、長野恭紘別府市長は次のようにコメントを発表した。
広瀬知事におかれましては、20年の長きにわたり、県政を力強く牽引いただきましたことに、心から感謝申し上げます。安心・活力・発展のスローガンのもと、県民の幸せを常に考えられ、ラグビーワールドカップの大分開催や宇宙港の誘致など、多岐にわたり、県民に元気と希望を与えていただきました。
また、観光立市の別府市に対しまして、各段のご支援をいただきましたことを厚くお礼申し上げます。引き続き、残りの任期を全うされ、ご尽力賜りますとともに、市民を代表しまして、広瀬知事のご功績に感謝申し上げます。