コロナが「5類」に移行して収束のムードが漂ってはいるものの、油断は禁物だ。4年に及ぶ災禍は身も心もズタズタにした。
今年はそんな中、この禍を吹き飛ばす明るいニュースに恵まれた(まだ3カ月少しあるが)。
WBCの侍ジャパンの優勝。バレー男子の活躍。48年ぶり五輪の自力出場権を得たバスケット。欧州の覇者ドイツを下したサッカー。W杯初戦圧勝という幸先の良いスタートを切ったラグビー。
コロナなんかに負けてはいられないという「気概」を多くの日本人にもたらした。働く人々に再生可能エネルギーをもたらした。
スポーツという筋書きのないドラマが、それぞれ息をもつかせない展開で人々の心を掴む。そんな実体をよそに、
「現在のスポーツ界、日本人より外国人の活躍に依存しているのでは…」「なぜ純粋に日本人で構成できないのか!」――時折り耳にする事がある。なるほど「純血」が存在価値の決定基準とするなら、この「純血」というものを考え直す事も必要か。
現下で活躍する(注目される)スポーツの指揮者(監督)をみると、野球の栗山英樹氏、サッカーの森保一氏以下は、バスケットのトム・ホーバス氏はアメリカコロラド州の出身。男子バレーのフィリップ・ブラン氏はフランスのモンペリエ出身。ラグビーさくらジャパンはジェイミー・ジョセフ氏でニュージーランドのマールボロ出身。各競技の選手の多くは、「出身地」が異なる人材も多い。結果、出身地が海外というだけのことか。
彼ら各監督の就任と同時に日本体育協会から、単なる指揮者としての存在ではなく、各スポーツを支持、応援するこの「日本」と、「日本人」を知る事から求められ、日本文化を学ぶ必要に迫られる。
武道はじめ、茶、花道のワビサビ、全体に奉仕する没我の境地、神社仏閣への参拝、日本精神の何たるかを身に付けるよう推められる。全監督は当然のように受け止め、日本定住を快諾して、日々選手との交わりを続けている。人によっては流暢とも感じる日本語を身に付け、「日本化」がチームを纏める原動力となる事を感じる。反面、旧態依然とした無批判な自我の抑制や集団優先主義の脆弱性も見抜く。選手の多くは日本で家庭を設け、自ら進んで「日本人」になろうとする人が後を絶たない。
そして、何よりその結果の出し方が実は「日本的」である。いずれのスポーツも完膚なきまでに徹底撃退させるのではなく、ルールを重視する。ルールを厳格に守りその「フェアプレー」があるからこそ支援者や観客を深く魅了する。選手関係者の行為は、それを見つめる人達にも影響を与えている。試合終了後のゴミ拾いや、観客同志のトラブルも一切、耳にした事がない。選手のロッカールームは開始前の状況に戻され、感謝のメッセージを残して、激戦場を後にする。結果いかんを問わず、この光景が開催地のニュースで取り上げられ、日本という国のイメージをいやが上にも向上させているようだ。この例を見れば「純血」とは、それぞれの担うスポーツ、そしてそれを行うための基本理念としてのものを「純血」と呼ぶべきだろう。現在のサッカー、野球、ラグビー、バレーそれぞれが日本化の産物とすれば、「出身地」の別は問題とならないのでは…。
激戦のバスケで、ホーバス監督が日本語で選手を鼓舞する。「こんなのオレたちのバスケじゃない!」この言葉、私たち日本人より分かり易く、若者達の心に響く。
「純血」即ち、「純粋種」の反語を「雑種」、「混血」とする言葉の存在、これは現在の日本精神にはない。
(陽)