大神回天会(魚住修三代表)は12日午後3時、太平洋戦争末期に使われた特攻兵器・人間魚雷「回天」で壮烈な戦死を遂げた大分県で唯一の搭乗員、工藤義彦氏(享年21)=海軍少佐=の南荘園町の遺族宅で手を合わせた。
工藤氏は大正13年3月10日、大分県大野郡大野村小倉木(現在の豊後大野氏大野町小倉木)で生まれた。小学校入学時に別府市へ。大分中学校から大分高商(現大分大学経済学部)に入学。2年生の昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発。学徒動員が始まり、4年生の18年9月に繰り上げ卒業。予備学生となり、長崎県川棚町へ出征。同町にあった「無人魚雷訓練所」に兵科3期生として入所。翌19年の出撃直前、指揮官板倉光馬少佐は工藤少佐の最後の規制に期生時間をより多くする配慮として、水上飛行機で亀川港まで送った。小倉木の実家にも帰り、同所の家を一軒一軒回って帰省のあいさつをした。死出の旅の始まりだったが、明るく振る舞い、何も言わなかったという。同年11月8日午前9時、菊水隊として出撃したが、工藤氏の回天は漏水のため起動しなかったため帰還。規約で2回目の出撃は行わなくてもよかったのだが「恥を晒したくない。次回は必ず成功して戦死する」と誓ったという。同年12月30日午前10時、金剛隊としてグアム島に向けて出撃。翌20年1月12日午前3時24分、回天で体当たりをし、日本の国を護りすべてを投げ打って、散華した。
工藤家を継いだ義彦氏の親戚の信子さんは「義彦さんがお別れのあいさつに来たとき、私は10歳でした。そのとき『信ちゃん、お嫁に来いよ』と言われたことを覚えています。孤独な人でした。孫たちに『仏さまに安らかにお休みくださいと言わないといけないよ。工藤家を守らないといけない。国のためにこんなにしているのだから』と話しています。いま、皆さんがこのように来ていただき嬉しいです。義彦さんが出ていくとき、お別れで尺八を吹いてくれました。遺品として残っています。生きていたら、どんなに歳をとっていただろうかと想像します」と話した。
魚住代表、牧さんは当時の写真を見せてもらいながら昔話に花を咲かせていた。