朝見神社から渡御50年

昨年の本音會渡御の光景

 1976(昭和51)年4月1日の温泉まつりに、八幡朝見神社の本神輿が登場して今年で50年となった。
 この50年前の経緯を記載して歴史に留めておくこととした。そもそもの発端は、今日新聞社に「まつり会場を引き受けて欲しい」と、故脇屋長可別府市長のオファーで、当時社長の故檀上栄が朝見神社の故神不二男宮司に相談。約20年間終戦と同時に人力による渡御が途絶えていた、「本神輿の渡御を再開しては……」という発案で本神輿渡御に取りかかった。
 当時東京の大学生だった愚生に声がかかった。浅草の三社まつりや富岡八幡での経験が奏功、氏神様の勅命と、家業コンニチの社命として引き受けるハメに。春休みの帰郷時に早速八幡サマの神輿蔵へ。台輪の寸法約4尺を超す大神輿は京都の神社用品取扱企業の作。腰がぬける程の大物だ。1941(昭和16)年製というから、真珠湾攻撃の年。この規模の神輿が2基、八幡サマが保有。当時の隆盛ぶりがうかがえた。担ぎ手は愚生の同級生から、地元野口周辺の若者、駅前にタムロする当時の「ゾク」や腕に覚えのある者達に声をかけ、わずか1カ月で50人程が集まった。別府駅高架下の故芳崎宏(ファニーカンパニー社長)や矢野善久(BGMマスター)、明石文昭堂の明石泰信現会長、早稲田大学1年生だった岩屋毅さん(現外相)らが名乗りを上げてくれた。

「神輿」の意義は人材育成と地域社会の発展

 当初、八幡サマの神輿は白装束。茶色に変色して所々で虫クイの穴も。「これでは若者は集まらない」と、別府まつり協会でデザイン演出を手がけた詫間文男さんに依頼して江戸情緒の印袢纏を製作した。朝見の杜から別府駅まで片道約4時間の道のり、「ソイヤ!」「素意也!」のかけ声で見事にくり出し、パレードに参加、多くの市民の歓声が湧き上がった。神輿の御立寄りで末広町の内田病院は第一回から故内田集司先生が陣頭指揮で対応していただいた。神輿渡御の光景に感銘した、別府商工会議所副会頭でまつり部会長の故西田功氏が、ホテル白菊の日本庭園の宴会場を提供、本神輿渡御参加者全員が直会に参加、食事から飲料全てタダ。早速八幡様の御利益にありつけた。
 51年の温泉まつり参加から、程なくして若者の社会勉強団体「本音會」を組織。当時、山の手の本家お川の専務小川隆氏を初代会長に、以下矢野善久、橋本達途各氏が続いた。本音會発足はチャーターメンバーで小川、矢野両氏をはじめ飯野一雄玉川電化社長、川本尚哉カワモト会長、久保田好和当時リバティーベル代表、山本晋祥フタバ印刷現会長、故小野英知当時小野歯科医院長と愚生で発会。市内の地名士を講師に社会勉強会としてスタートしたが、現在は神輿一本。温泉まつりはじめ佐伯、延岡の同好会と連携、東京都江東区の富岡八幡宮に特別参加をくり返しこの世界では有数の老舗的存在になった。また特記すべきは、94(平成6)年には別府市と姉妹都市のアメリカ、テキサス州ボーモント市に親善神輿を製作して寄贈。当地のまつりにも参加して神輿担ぎを行った。製作は宮大工棟梁の資格を持つ幸建設の先代故康生さん。台輪寸法は約3尺の唐破風和洋3手先の江戸型神輿。

50年を支えた恩人達に感謝を込め

 神輿渡御は前述の故脇屋市長、故神宮司、故檀上の「3大恩人」はじめ、実に多くの人達の御世話になった。また恩を受けた我々もまつりを通じて人材育成、事業所の繁栄、地域社会の活性化へと続ける努力も重ねて来た。50年に及ぶ神輿渡御で第一回目から参加は、矢野BGM氏と愚生の2人だけとなった。別府の神輿担ぎは平成16年の「ドリームバル」で当時市長の故井上信幸氏の方針で神輿同好会を組織、本音會はじめ連合青年団睦会、市職労青年部、女性部、別府商工会議所青年部「郷神會」、別府宵酔女みこしの6団体が今も元気に担ぎ棒の下で声を張り上げ今日に至っている。
 当時の青年は老いの人となり、本音會に協賛友情参加してくれている大分県立別府鶴見丘高校ラグビー部、青年団の溝部学園高校バスケット部、そして毎年初任者研修として受け止める市職労の女性部、青年部の若き人たちに期間の長短はあるものの、この伝統が確実に継承されているのは心強い。
 別府八湯温泉まつりのスタートは本音會、連合青年団睦會が4月1日早朝、八幡様の鳥居をくぐって氏子衆のもとへ。百年渡御をめざして力強い前進を始める。
 本年の見どころは4月6日(日)午後2時頃、トキハ別府店前から大分みらい信用金庫前の特設ステージへの「神輿の祭典」。別府百年に御利益を携えて神輿衆が結集する。神輿同好会6団体の雄姿が泉都の春に勢いを吹き込む。
 湊祐之本音會22代目會長は「渡御50年、今は亡き多くの恩人や先輩らに支えられて今日を迎えました。感謝の祈りを込めて本神輿渡御奉仕をさせていただきます」とキッパリ。  (陽)