宮森遺族会長の「8月15日」

戦死した「山風」の宮森菅一副艦長
父親の思い出を語る宮森智久さん

 8月15日は80回目の「終戦記念日」。別府市遺族会連合会会長の宮森智久さん(92)の父親菅一さんは旧日本海軍の駆逐艦「山風」の副艦長(少佐)で、昭和17(1942)年6月23日、米潜水艦ノーチラスの魚雷攻撃を受けて戦死した。59歳だった。宮森さんに「8月15日」を語ってもらった。
 神奈川県の浦賀船渠で建造された山風は昭和10年5月に起工。乗組員226人、全長111メートル、最大幅9・9メートル、基準排水量1685トン。数々の海戦に参加した。
 そして昭和17年6月21日、山風は油槽船2隻を護衛して青森県の大湊に向け横須賀を出発。大湊に入港した後の23日、北海道沖日本海でノーチラスは山風に対して魚雷4本を発射、うち2本が命中して沈没。浜中脩一艦長(中佐)以下、乗組員全員が戦死した。
 宮森さん家族は佐世保にいて、大本営から戦死の知らせを受けた。悲しさとともに、これからどうしようと動揺した、まだ9歳の宮森少年だった。
 海軍に志願した頑張り屋のやさしい父親だった。「階級社会だから子どもたちは大学に行かせろ」と言い遺した。母親ツヤ子さんは女手ひとつで苦労して6人の子どもを育て、全員を大学に行かせた。
 宮森さんは男ばかり6人兄弟の3番目。石垣小、旧制別府中学、学制改革となり県立別府鶴見丘高校から、大分大学経済学部を昭和31年に卒業。別府信用金庫(現大分みらい信用金庫)に就職してから、遺族会青年部の活動に参加するようになる。その後、別府市遺族会連合会会長に就任した。
 「戦争はろくなことがない。絶対にやってはいけない。日本は平和が続いてほしいが、自分の国を守る自衛隊は必要。いま米国から守ってもらっているが、これで独立国といえるか。米国が手を引いたらどうなうるのかを考えて国防を充実してほしい」と締めくくった。