湯山分校閉校記念誌を作製

記念誌を作製した恒松栖さん

 湯山に住む恒松栖さん(83)はこのほど、朝日小学校湯山分校記念誌を作製した。B5版、104㌻、カラー写真や図版など120葉を9章にまとめている。300冊発刊しており、馬場の「おおくま書店」で販売している。一冊2千円(税込)。
 湯山分校は昭和60年3月に最後の卒業生が巣立ってから休校し、令和元年5月22日に閉校式を挙行し128年の歴史に幕を閉じた。
 校舎を取り壊す際の付帯条件として▽閉校式をすること▽敷地内に記念碑を作ること▽記念誌を作ること―の3点を挙げた。うち閉校式と記念誌の2件は実現した。
 別府史談会副会長で湯山分校を昭和25年に卒業した恒松さんは、湯山の地名のルーツや地域の歩みなどを調べており、多くの人の力を借りて完成した。
 湯山分校は、明治42年に速見郡御越町立亀川尋常高等小学校湯山分教場として開校。昭和10年に別府市立亀川尋常小学校湯山分教場、16年に別府市立亀川国民学校湯山分教場、23年に小学校令により別府市立亀川小学校湯山分校、28年に湯山の中学校区が亀川から朝日に変更、37年に湯山地区の学校区が亀川から朝日へ改正された歴史を持つ。
 文献を調べたところ、地名の「湯山」は文化4(1807)年、脇蘭室の「餡海漁談」に「野田村湯山」と記されている。また文政8(1825)年の天満社の棟札に「豊後国速見郡野田村枝合湯山」と記されており、江戸時代の1800年代に野田村の一部である湯山の名が定着することになったという。
 そのほか▽湯山分校をはぐくむ歴史▽小さな村に学校ができた▽湯山分校で生きた人々▽農業の振興と工業生産▽湯山地区内に生きる諸施設―などについてふれている。
 「学校の歩み、果たした事柄、地域住民の思い入れなどが、学校に表されている。先人の苦労や地域の姿などを記録に残したい、今書き残しておかないといけないという思った」と話した。