「東日本大震災」から10年に思う

 「10年経ったら、ここがどんな姿に生まれ変わるか、もう一度ここに来てこの目で確めてみたい」―――東日本大震災で気仙沼市に災害派遣中のある自衛官が呟いた一言。
 あれから10年。派遣部隊出身者で「視察旅行」の話もあったが、コロナ禍でこれも断念。
 あの頃をふり返ってみた。
 3月11日の発生から、陸上自衛隊別府駐屯地第41普通科連隊を主軸とした部隊の大部分に派遣命令が出た。翌日12日早朝、情報収集目的の先遣隊その後順次、当直体制を除く全部隊の隊員が出動した。目的地は宮城県気仙沼市。41普連は人員562人、車両133台、進行途中で4師団施設科部隊と合流して編成拡大しての進行。部隊は到着後、人命救助、不明者救出捜索がメインながら、ガレキの撤去や地元自治会の支援、避難者の生活支援も主力となった。
 ▽人前で大声を出すな▽タバコを吸うな▽笑うな▽「御遺体」と呼べ▽商店で物を購入するな▽派遣中の飲酒は厳禁―――という考えられないルールを、派遣のべ70日間順守した。
 隊員は結納、結婚、出産、子弟の新入学などの出席、主催は全てキャンセル。期間中に定年退官、任期満了を予定している隊員も。
 発生後直から、対応準備に当るが、九州部隊は防寒装具が無い。「ユニクロ」に走ってヒートテックを買い求め、東北までの道程は平面地図だが、普及しはじめたスマホのナビを利用して車両ドライバー達はこれに備えた。41普連同行は福島原発爆発直後に、当時4師団幕僚長で元41普連隊長の杉山利行さん(現全日警役員)に同行取材許可を願い出た。「大分県下の全TV、新聞にも、平等に許可を出しますヨ」と来た。結局、今日新聞1社だけが手を上げて、「独占取材」となった。3月28日午前5時、後発部隊の4中隊に同行、別府から40時間、全走行約2千キロ、途中で名古屋の駐屯地で4時間の仮眠を取って目的地へ。到着するとネアカの広報班長小副川祐二さん(現亀の井バス在職・視察旅行幹事)が出迎えてくれた。対応は一般隊員と同様にお願いした。部隊の宿営地は気仙沼市立条南中学校。校庭に天幕を張り、本部管理中隊は理科実験教室で寝食。午前5時の起床から午後8時で1日が終わる。全員の表情は淡々として悲壮感や疲労の陰りはなかった。弱音を見せない意識か。4師団各部隊は王城寺演習場で宿営、毎日現場に移動するが、唯一41普連は「市街地」に宿営、住民の目線を受ける事となった。士気は極めて高い。日頃の訓練の賜物であり、日常別府市民と接する機会の多さが奏功したかのよう。
 気仙沼を代表して現地の「三陸新報社」を紹介したい。1946(昭21)年創刊、気仙沼市、南三陸町がシェア。被災直後に停電。輪転機が動かない。浅倉眞理社長陣頭指揮のもと、車載バッテリーから電源をコピー機に接続。速報版を避難所をはじめ住民集合地に配布しつづけた。市民生活を支え、復興の礎を築く、新聞人の矜持を強く印象づけた。
 ある時、一日の任務終了後、各中隊長とのブリーフィングで当時の連隊長藤岡登志樹さん(現陸自教育訓練研究本部副本部長)のゲキが飛んだ。「飲酒をした者は厳罰に処す!」当然、誰一人飲酒した者はいない。勤務の慣れがミスや損害を発生させる。事前警告に他ならない。同行取材後は帰別の途に。車道、鉄道は皆無。4師団のヘリで、杉山幕僚長が迎えに来てくれた。那須塩原まで送ってもらった。気仙沼湾眼下に大型のヘリ3機が飛来「こりゃ何かい?」「アメリカ海兵隊の『トモダチ』作戦。海兵隊員が空母から乗り込んで来てます」「ありがたい!」とニッコリ。那須塩原から東京―小倉を経由して別府へ。私物の自衛隊迷彩服を着用していたので「ご苦労様でした………」の声がかかりっ放し。その時思いもつかなかったが、全部隊が目標達成して「凱旋」できたのは、隊員の留守をあずかる残留部隊や隊友会をはじめとする自衛隊支援団体、そして何よりご家族の気丈な立ち振る舞いがあったからこそ、安心して職務に邁進できたものと今こうして思い新たにしている。
 被災地支援に実際「出動」した各団体で、当社が取材したのは別府市役所、別府市議会有志、別府警察署、水道局、消防本部、国公立系をはじめとする、病院医療従事者、大分ガス、九州電力、NTT、観光別府ならではの別府観光産業経営研究会、別府JC両会は宮城県三陸町に温泉を届けた。この他、別府YEG、全市に義援の気運が高まり、商工会議所、観光協会、RC、LCをはじめ別府大学、溝部学園もこれに呼応した。全市をあげての支援の輪は壮大なエネルギーとなって東北の地に届けられた。
 被災10年を経て改めて思った。コロナ禍は乗り越えられる。これだけの人々の思いが一つに結集すれば。私たちはこれを共有している。亡き人達2万2千人、行方不明2526人の魂に誓い新たにして。  (陽)