別府史談会(友永植会長)は春季研究発表会をこのほど、ふれあい広場サザンクロス視聴覚室で開催し、約40人が聴講した。
会員の小野弘(元今日新聞社報道部長)さんが「竹瓦温泉かいわい物語」と題して研究発表を行った。
「竹瓦温泉かいわいは、かつてキツネが出没するような寂しい場所だった。竹瓦温泉は地元民だけの粗末な温泉施設にすぎなかった」と解説スタート。
明治35(1902)年の温泉施設の改築を機に一挙に賑わいの場へと大変貌を遂げた。竹瓦温泉は同年の平屋建て、大正12(1913)年のハイカラな洋風2階建て、そして昭和13(1938)年に寺や神社を思わせる唐破風(からはふ)の玄関屋根を持つ建築で、過去3度とも別府町や別府市が建てた公設の温泉場である。
「かつては乾液泉(けんえきせん)という名前もあった。乾液の意味は不明だが、乾は『天』や『天子』、方角の『北西』の意もあるため、私の想像にすぎないが『天から授かったもの』、『天子のような身分の高い人が浴びるもの』と、ありがたい温泉という気持ちを込めたのか、あるいは、別府港から北西方向という位置関係を示したのかもしれない」と説明。
竹瓦温泉付近の有名旅館として、明治33(1900)年創業の松屋旅館・森屋旅館、同37(1904)年創業の関屋旅館があった。
「森屋旅館は木造5階建て、屋根には白い文字で『モリヤ』と罹れ、船や汽車で別府に来たお客の目にとまり宣言効果は抜群だった。また、旅館内に水族館を備えていた大変ユニークな旅館で、5階建ての建物の見物客などで賑わった」と述べた。
竹瓦温泉界隈は、戦後の昭和42(1967)年の関西汽船の国際観光港への移転を機に、その前後に旅館の廃業や移転をしたり、料飲ビルに建て替わるなどして大きく姿を変えた。
スライドを使い、1時間30分にわたり詳細な解説が行われた。