中山慶一郎さんの「終戦の思い出」

「終戦の思い出」を綴った
中山慶一郎さん

 南的ヶ浜在住で元自治委員会副会長の中山慶一郎さんが、「終戦の思い出」を綴った。市役所市民課長から地区公民館長、自治委をつとめた町の世話やきさんは、太平洋戦争開戦の時に生を受けた。出生は現在の北朝鮮の首都平壌(ピョンヤン)。実父はエリートサラリーマンで外地に日本製品を紹介した企業戦士。着のみ着のままで敗戦とともに引き揚げた家族5人の姿を克明に記述した。奇しくも本日8日は、帝国海軍が真珠湾を奇襲し太平洋戦争の火ブタを切って落した開戦の日。本文は敗戦を経て平和の意義を語る一文。語り継ぐ市民遺産でもある。

 昭和16年(1941)、太平洋戦争勃発、昭和15年(1940)生まれで、現在83歳の私です。
 昭和20年(1945)7月16日夜大分空襲、同年(1945)8月15日玉音放送、「終戦」私が5歳の時です。
 終戦当時私は現在の北朝鮮、平壌(ピョンヤン)に居住しており、父母と一つ違いの次男、乳飲み子の三男、五人家族で着の身着のままで祖国日本へ引き揚げました。78年程前のことなので記憶が定かではありませんが、その中で断片的に覚えている思い出を述べたいと思います。
 先ず、引き上げる前「平壌の住まい鐘紡社宅」での出来事です、ふすまを開けて突然入ってき来たのは、生まれて初めて見たロシアの兵隊でした。見上げた人間に腰を抜かしました。鴨居を潜り抜けるほどの長身、髭だらけで赤ら顔、家の中を見回し柱時計を簡単に外し、それを小脇に抱えたその時一瞬ですが彼と目が合ったのです、直ぐに出ていきましたが、私は身体が固まり暫く動けませんでした。父は勤めで不在、母や弟達、周りの様子は全く記憶に無いのです。
 ロシアが日本との条約を破り連合軍に参戦した瞬間でした。
 もうこの場に長居は出来ません。間もなく果てしなく遠い日本への引き揚げが始まりました。
 父は5人分の着替えが入ったリユックサック、時々その上に次男を乗せ、母は首からサラシに包んだ三男を抱き、背中にオムツの入ったカバン、私は手ぶらでしたが、我が家が引き揚げ家族の中で最悪の移動体制でした。朝鮮半島の一番下「釜山港」までの過酷な移動が始まりました。
 徒歩での移動は父と母が団体から遥かに遅れて、何時も最後尾、先頭の私は曲がり角から現れる父母を確認するまで気が気でありませんでした。
 持ち物を狙われているので、時には馬車に荷物を載せて暗い夜間移動、はぐれたら最後、置いてきぼりです。「虎に食われるぞ」と脅されていました。
 空の貨物列車での移動、ドアは開きぱなし片隅には排泄物がそのままです、駅に停車すると腹を壊していた父が駅の便所に用足しに行き、母に「父が乗るのを確認しなさい」と言われました、勿論警笛は鳴りましたが、聞こえているはずなのに父は出てきません。徐々に加速が付き母が「乗った?」「まだ」と、その時、もの凄いダッシュで最後尾の貨車に飛び乗ったのを確認、慶応大学野球部レギュラーだった父、私の名前に慶応の「慶」を付けたほどです。私が「間に合ったよ」と知らせたら、母は軽く頷くだけでした。決して心中穏やかではない筈なのに表に出さない秋田生まれの東北女の気性を垣間見た思い。
 途中テントでの野営では、隙間から銃を持った兵隊が行き来するのが見え怖くて寝られなかったのを覚えています。食べ物ではコーリャンと言って、小豆に似た薄いお粥みたいなものを食べ、美味しくなかったことだけが記憶にあります。
 釜山港で米国船に乗せられ佐世保港へ、途中子ども達がかなり居たので米兵が上階からお菓子やチョコレートをばら撒きました。弟は腹ばいになり両手を広げかき集めていました。敗戦にもかかわらずタフな神経を備えているようでした。
 佐世保港に着いてから町は見えるのに、検疫等でなかなか上陸出来ませんでした。
 デッキで一人で居た時、突然若い女性が海に飛び込んだのです。しかも大切に持ち帰った晴れ着を着たままですから上から見ると花が開いたようで、着水の波紋が広がりとても奇麗だったのを鮮明に覚えています。早く帰りたいという思い余った末の行動でした。
 勿論、米兵がボートを降ろし即座に救出、その素早い作業動作にも感動したのを覚えています。
 間もなく、家族全員裸一貫無事にふるさと日本に帰り着きました。父の実家佐賀市で旅の疲れを癒した後、父の勤務先本社大阪市淀川区に転入し、同区の小学校に入学しました。以上が私の終戦の思い出です。
 人生を狂わす「戦争」は決して起こしてはなりません。
 ウクライナ、ガザの闘いは多くの民間犠牲者を出して年を越そうとしています。願わくば両国を取り囲む国々の力で平和再構築に向けた歩みに期待したいと思います。令和6年は平和を希求する地球人の姿が表れる事を願い、私たちを含む人々の戦争への戒めとして、ここに記しておきます。