荒金大琳(あらかね・だいりん)氏、死去

 荒金大琳(あらかね・だいりん)、(本名・信治=のぶはる)氏、かねて病気療養中のところ22日午後11時51分死去した。享年76歳。昭和22年9月、別府市浜脇出身。山の手中―県立別府鶴見丘高校―大東文化大学を経て、書の道へ。中学生の頃から山晴社の首藤春草氏、大学で金子鷗亭氏に師事。同氏の字典を出版。母校鶴見丘で教壇に立ち、別府大学では名誉教授で退職。愛妻節子夫人の間に、長男治氏を先頭に1男3女の子ども達は父の後を継いで全員書家。明るく元気で活動的な性格で知られ、「書道ガール」養成では元祖的な存在として知られた。日展会友、毎日書道展審査会員、(公社)創玄書道会理事、別府市美術協会長をはじめ別府東RCの元会長でガバナー補佐の役職をつとめ、地区の社会奉仕活動に貢献した。
 荒金氏は本場中国との交流も深く「雁塔聖教序」=詳細末尾記載=研究の第一人者。
 通夜は24日(土)午後七時、葬儀は25日(日)正午いずれもプリエール天寿の杜にて。喪主は夫人の節子(せつこ)さん。
【雁塔聖教序=がんとうしょうぎょうのじょ】研究。荒金大琳氏の書家としての功績の大部分は中国との文化交流訪問120回。
 西暦629年、西遊記で知られる三蔵法師(玄奘)は27歳、中国に伝来していない仏教経典を求めてインドに。修学の末、経典をはじめ舎利、仏像を得て17年後に唐に帰着。当時の中国(唐)では外国訪問を禁じられた時代。仏教伝来当初の歴史的快挙に、時の太宗皇帝その皇太子李治は玄奘の功績を称えて文書にした。当時の書家褚遂良が揮亳して、中国は陜西省西安の古刹、慈恩寺に碑文として納めた。荒金氏は唯一人、碑文と拓本と写真撮影の許可を得て、書体の研究成果を学界や出版物として発表。度重ねた訪中や、招聘した「中国5千年文化芸術展」はじめ、書道の作品文化展の開催が、中国政府を動かし、日中友好の絆を深める功労者として評価された。慈恩寺の雁塔聖教序はこれ以降は門外不出の宝物。